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2020年から蘇る(1) |
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2020年12月31日 |
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 | 雨宮 和子 [あめみや かずこ]
1947年、東京都生まれ。だが、子どものときからあちこちに移動して、故郷なるものがない。1971年から1年3ヶ月を東南アジアで過ごした後、カリフォルニアに移住し、現在に至る。 |
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▲ 2020年の始まりは、家から歩いて7分のビーチを、日が沈む頃に毎日歩いた。日は沈んでも、翌日また確実に上ってくることが心の励みになった。 |
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2020年は、世界中の誰にとっても、被った災難の規模の違いはあっても大変な年だった。その大変さはまだまだ終わってはいないけれど、ここから抜け出す明かりが見えてきた。そのことは私自身にも言える。
私の2020年は、自分にとても大切なことから始まった。1月26日に、トーマスのメモリアル、つまり彼を追悼して送り出す集まりを開いたのだ。事故があって彼が命を落としたのは2019年の10月6日だったから、それから3ヶ月と3週間も経っていたけれど、そういう集まりを急いで開く必要はなかった。事故の後の2ヶ月ほどはあまりに突然の出来事だったので私は半ば呆然としていたし、私自身が怪我から立ち直ることに専念して、他のことはあまり考える余裕がなかった。
それでもトーマスのメモリアルのことは事故から1ヶ月ほど経ってから考え始めた。が、慌てることはない。クリスマスやお正月が済んで、みんなが日常生活に戻ってきたころを考えて、1月最後の日曜日を選んだ。次に場所だ。どこでやったらいいだろうといろいろ考えているときに、トーマスの農園で働いているクリスチャンという名の労働者と息子がそれぞれ夫婦連れで訪ねて来てくれた。クリスチャンは父親のファンがまずトーマスのもとで働いていたから、親、息子、孫息子と3代続けてトーマスの農園で働いて来たことになる。特にクリスチャンは、2005年のトーマスの大怪我のときも、2007年の大火事のときも、トーマスの片腕のようにしっかり働いて、トーマスの苦労を共有して来た。おまけに彼はチキンのバーベキューが大得意で、お誕生日パーティーのときは必ず彼に食事の準備を任せ、パーティーはいつも大好評だった。いやそれ以上に、クリスチャンたちがトーマスのメモリアルをやりたがっている。それなら彼らに任せよう。そうして場所も決まった。
クリスチャンたちが熱っぽく、こうしよう、ああしようと話すのを聞いていて、彼らがどんなにかトーマスを慕っていたかがひしひしと感じられる。それでよくわかったのだが、トーマスは起きている時間のほとんどを農園かアボカド関係のことで過ごしていたから、彼にとってはそうして接して来た人たちとの関係が一番大事なことだろう。彼が命を落としたというニュースが広がると、すぐ、アボカド関係の人たちがたくさん私に慰めのカードや花を送ってくれた。私にとっては名前は聞いたことがあるけれど、顔が思い浮かばないという人もかなりいた。そういう人たちの多くはトーマスのメモリアルに来るだろうが、ほとんどの人がサンディエゴ郡の北のリバーサイド郡とか、ロサンゼルスの北のベントゥラ郡から来るから、位置的にも農園のあるラモナの方がその人たちには便利だ。また、アボカドとは直接関係のない友人たちには、トーマスが情熱を注いだアボカド、そして大火事による壊滅から彼が復興させたアボカド園を見てもらいたかった。
そうして場所と食事の設定は決まった。もう1つ大事なことは、メモリアルの進め方だ。これはトーマスのいとこの娘だが、私たちにとっては娘のようなヘザーと相談しながら決めていった。トーマスとは生前、マリアッチ音楽で葬儀をしようなどと話したことがあるが、マリアッチはトーマスのほんの一部しか表さないし、トーマスを回想するにはかえって邪魔になる。それで、これもいつものように、友人のホセにハープをバックグラウンドとして演奏してもらうことにした。また、私は自分たちの結婚式から始めた習慣で、参加者全員をまず紹介することから始めたかった。が、これにはヘザーは大反対した。そんなことをしたら肝心の会が始まる前に日が暮れてしまう、と言って。確かに、彼女の言う通りかもしれない。それで参加者紹介は断念した。その代わり、世界中を駆け巡ったトーマスの全容が伝わるように、6人の友人と親類に、オックスフォード時代、アフリカ時代、南米とカリフォルニア時代、アボカド関係、イギリス、そして友人としてのトーマスを語ってもらうことにした。
それでヘザーも私も満足する会の進め方が決まったのだが、はて、どうやってメモリアルの集まりを閉じるか。ヘザーは、参加者一人一人が花びらをトーマスの写真に捧げて去るというような物静かな終わり方で、トーマスを失った悲しみを悼むのがいいと言った。でも、それではみんな悲しい思いで、あるいは沈んだ気分で家路に着くことになる。それはどう考えてもトーマスらしくない。トーマスはマリアッチではなくても、人生を祝うような集まりをしてもらいたかったのだから。彼自身、自分の父親が亡くなったときの葬儀で、教会での儀式が終わって参加者に食事を出したとき、父親が大事にしていた高級ワインやらお酒類をどんどん酒蔵から出して、楽しい気分を作り出したという。そのことに反発した人もいたそうだが、「でも、振る舞うのが大好きだった父は、きっと喜んでくれたと思うよ」と、トーマスは自信たっぷりに言っていた。そんなトーマスだったから、みんなが楽しい気分で家に帰れるようにしたい。それで、最後はみんなで空に向かった薔薇の花びらを一斉に撒き、トーマスを空に送り出すことにしようと私は提案した。でも、とヘザーは反対した。そんなことをしたら、それに反発する人も出るかもしれないと。彼女自身が厳かな終わり方で、自分の悲しみを慰めたかったのだろうと思う。でも、それはトーマスにふさわしくない。こればかりは譲れないと、私が強く主張したので、ヘザーも折れた。
メモリアルには地元の友人や知人はもちろん、東海岸の親類と旧友、イギリスからは親類、そして日本からも複数の知人、そしてわざわざインドからも友人が飛んで来てくれ、合計165余名の人々が集まってくれ、改めてトーマスの人柄が感じられた。
そうして、メモリアルは楽しく進行し、悲しさがみんなで乗り越えられたと私は感じた。最後にバラを空に向かって撒いたあとは、みんな笑顔で、トーマスを楽しい思いで偲ぶことができたようだ。そうして軽い足取りで帰っていった。また、話には聞いていたけれどトーマスのアボカド園を見たのは初めてだったという人たちは、大火事の後に見事に復興させたトーマスのアボカド園に感心し、自分の目で見ることができたよかったと喜んでくれた。
メモリアルでトーマスという人を十分表すことができ、彼を愛しんでくれた人たちの彼に対する思いを満たすことができて、私もとても嬉しかった。こうして始まった私の2020年は、トーマスのいなくなった私の日常生活の始まりでもあったけれど、元気に進んで行けるように感じられた。(続く)
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