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ボーダーを越えて
204 黒い袋
2020年3月21日
雨宮 和子 雨宮 和子 [あめみや かずこ]

1947年、東京都生まれ。だが、子どものときからあちこちに移動して、故郷なるものがない。1971年から1年3ヶ月を東南アジアで過ごした後、カリフォルニアに移住し、現在に至る。
誰かが私の名前を呼んでいる。私はうっすら目を開けた。
「あなたの犬を病院へ連れて行かなくちゃいけません」と、声は言う。「連れて行ってくれる人の名前を教えてください」
とっさに私はさっき一緒に食事をしたばかりの友人夫婦の名を言った。それ以上は何も聞かれなかったけれど、何かが進行中なのが聞こえる。トーマスが救急車に運び込まれるのが見えた。右側を見上げると、見慣れたMARIOTTというホテルの赤いネオンサインが見える。左側に目をやると、私の車が進行方向の逆を向いて止まっている。私の頭はまた朦朧として、霧がかかった。

意識が少し戻ってきたとき、私は明るい照明の建物の中にいて、ベッドに横たわっていた。「息を吸って、留めて」という声がする。言われた通りにすると、今度は「息を吐いて」と言われた。それを繰り返すと、また静かになった。それからながぁい時間が過ぎたような気がする。私の意識はだんだん戻ってきた。私は病院にいるのだ。

私の左右はカーテンで仕切られていた。左側のカーテンの向こう側では何かが起こっている気配がしたが、なんの音も声も聞こえて来ない。私は右側の背中と左手の薬指が痛いのに気がついた。私たちが事故に遭ったようなのはわかったけれど、それがどうやって起きたのか‥‥ トーマスが救急車に運び込まれるのを見たのを思い出した。彼の怪我はどのくらいひどいのだろう。そのことを聞きたくても私の周りには誰もいない。ときどき看護師さんたちが足元を急ぎ足で通る。でも、その人たちに声をかけてちゃんとした質問ができるほどには、私の頭ははっきりしていない。

どのくらいそのままでいたのかわからないが、やがて中年前の男の人がやって来た。警察の人で、私に質問があるという。私たちは交差点でトラックにぶつけられたのだとその人から教えられた。そして、「夕方からそのときまで何をしていましたか」と私に聞いた。私は、6時半ごろ友人の家に食事に行き、食卓でアップルサイダーをグラスの半分ほど飲み、それからかなりの間休んでお茶を飲んでから、私の運転で56号線で家に帰るところだったと話した。
「運転しながらおしゃべりしていましたか」
「いいえ。夫は眠っていましたから」
「携帯電話でメッセージを送っていましたか」
「いいえ」付け加えはしなかったけれど、私は運転中は携帯電話は全く使わないことにしている。
「オーケー、わかりました。それから?」
「56号線を出ようとしたときに、信号が赤に変わるのが見えましたから、交差点に向かいながらスピードを落としました。すみません、それから先は何も覚えていないんです」
「いいですよ。証人がいますから」と、警察の人は言い、「アップルサイダーを飲んだということですから、念のため飲酒運転検査をしてもいいですか」と丁寧な口調で聞いた。私はちっとも構わない。たったグラスの半分だったし、飲んでから運転をするまでに2時間以上も経っていたから。私は風船に息を吐いた。「オーケー。ゼロですね」と警察の人は言い、名刺を置いて去っていった。

それからまたどのくらい時間が経ったのか、全くわからない。トーマスはどうなっただろう。誰かが何かを言ってくれるのを、私はじっとしたまま待っていた。そのうちカーテンの向こう側で、「この人は81歳?」と言う男の人の声が聞こえた。「そうです」と、女の人が返事をした。左側のカーテンの向こう側では、トーマスが治療されているのだろう。でもそれ以上は何も聞こえなかった。

また時間が過ぎていった。トーマスの怪我がどのくらいひどいのか、私は知りたいのだけれど‥‥

どのくらい経っただろうか。やっと医師がやって来て、私の枕元に腰を下ろした。私の首を調べて、痛いかどうか聞いた。いいえ。それで医師は頸椎カラーを外した。そのときまで、自分が頸椎カラーをしていたことすら私は知らなかった。それでは痛いところがあるかと医師は聞いた。背中の右側が痛いと言うと、肋骨が1本折れていると言う。それから? 左手の薬指。そこも折れているとのこと。それから医師は、
「あなたはハズバンドの世話をしていたのでしょう?」とおかしなことを言う。
「そうですけど?」
「‥‥ 私たちは最善を尽くしたんですが、彼を助けることができませんでした」と医師は静かに言った。
「?? 彼は、逝っちゃったんですか?」
「そうです」
私は医師から目を逸らせた。トーマスが救急車に運び込まれるのを見たのを覚えているけれど、そんなにひどい怪我をしているようには見えなかった。2005年に出逢った事故のときにはもっとひどい怪我を負ったけれど、彼はそれから立ち直った。いま医師が言ったことが本当のこととは思えない。その後医師が何か言ったかどうかは覚えていない。私自身は何を言ったらいいのかわからなかった。何をどう考えたらいいのかもわからなかった。

医師が立ち上がったのも気がつかなかった。私の頭は空っぽだった。

私の頭が空っぽなまま、時間が過ぎていった。そのうち若い女性看護師がやって来て、これからトーマスを監察医のところへ運ぶところだと告げた。
「その前に彼の姿を見せてください」と私は言った。彼の姿を一目も見ずして、連れて行かせるわけにはいかない。
「それは、勧めませんけど」と彼女は言った。
「いいえ。彼に会わせてください」と、私はきっぱり言った。「私は大丈夫ですから」
彼がもっと血だらけなたいへんな怪我をしたのを見たことがあるのだから、いまの彼の姿がどんなであっても、私は大丈夫だ。
若い看護師はそれ以上は何も言わず、車輪付きベッドに横たわったトーマスを私の左側に運んで来るようにスタッフに指示した。私は体が動かなくて頭を彼の方に向けることしかできなかったので、私に見えたのは彼の横顔だけだった。彼にはエアバッグでできたらしい擦り傷が額にちょっとあるだけで、なんの傷も見えなかった。毎晩見る彼の姿と変わりない。彼はいつも私より先に寝るので、私が寝るころには彼はいつもぐっすり眠っていた。
「トーマス」と、呼んでみずにはいられなかった。彼はいつものようにうっすら目を開けるような気がして。
「トーマス」と、もう一度呼んでみる。でも、彼は目を開けなかった。彼の頬をそっと触ってみる。いつもと同じように感じられる。でも、彼は目を開けない。私は彼の横顔を見つめ続けた。彼は深い眠りのままでいるように見えるので、一晩中私の隣にいて欲しかった。

でも、病院のスタッフが私の足元で待っている。彼らをいつまでも待たせておくわけにはいかない。

私が目で合図すると、スタッフは車輪付きベッドに寝かされているトーマスを静かに私から引き離した。私は目で彼を追った。スタッフが私の足元でジッパーを引っ張り上げて、トーマスをすっぽりとかぶせるのが見えた。そのとき初めて、トーマスはジッパー付きの黒い袋に入れられていたことに気がついた。兵士の死体を入れて戦場から本国に送る、報道写真で見たことのあるような黒い袋だ。

トーマスは、ほんとうに逝ってしまったのだ。
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