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縁の下のバイオリン弾き
178 風前のともしび
2020年10月1日
西村 万里 西村 万里 [にしむら・まさと]

1948年東京生まれ。大学で中国文学を専攻したあと香港に6年半くらし、そのあとはアメリカに住んでいる。2012年に27年間日本語を教えたカリフォルニア大学サンディエゴ校を退職。趣味はアイルランドの民族音楽 (ヴァイオリンをひく)と水彩画を描くこと。妻のリンダと旅行するのが最大のよろこび。
▲ ファウチ博士



つい先日のことだ。近所のオールド・タウンに電車の踏切があるのを車で渡ろうとしてヒヤリとした。この踏切はサンディエゴからロサンジェルスに至る電車の踏切だ。日本人から見れば電車と呼ぶのも恥ずかしいような単線のレールだけれど、市中にはいくつかの踏切がある。長距離の電車だけではなく、通勤用の赤電車も頻繁に走っている。

この踏切を越えたことは何千回、何万回になるだろうか。もうそこに踏切があることを意識することもなく、半ば本能的に線路の左右を眺めて電車が走っていないのを確かめてから車を動かす。

ところがこの日は今までとちょっと様子が違った。赤信号になったので、一応車を止めた。ところが普通の赤信号の他に、縦に3個並んだ大きな赤信号があってそれが点滅している。「電車が来ますよ」というサインだ。

ハッとして線路の向こうを見ると、遮断機がゆっくりと降り始めているではないか。「?」という感じであわてて上を見ると、南無三、我々の頭上にも、遮断機の板が!!!

これではならじと夢中で車を後退させた(後続車があったのだが、後退できるすきまがあったのは幸いだった)。その目の前に遮断器の板が降りてきて、ボンネットにあわや激突、というところでかろうじて止まった。本当に目の前、ボンネットの上、数センチだ。

止まったからよかったが、あそこで止まるとは神ならぬ身の知るよしもなく、その一瞬の恐怖といったらなかった。

あの遮断器というのはどのぐらいの力があるものか知らないけれど、電気で動いているのだから、なまなかのことでは止めることはできないだろう。車を後退させていなければ、もろに頭上から降りてきて、車体など卵の殻も同然、私たちの頭をかち割っていたかもしれない。その目の前を電車が風を巻いて通り過ぎた。

危うく命拾い、しかし不思議なもので私は冷静だった。いや、そうではなくて、心が凍りついていたのかもしれない。車を走らせながら、今日が命日にならなくてよかった、と自分自身につぶやいた。

あの赤信号が点滅している間はどこかでカンカンと大きな音が鳴っていたはずだ。それが全然記憶にない。後続車がクラクションを鳴らしたのかもしれないが、それも聞いていない。リンダが何か言った、それも覚えていない。電車が通り過ぎる音も聞こえなかった。すべては静寂の中で終始した。

私は今までの人生でトンチンカンな失敗をしたことは数限りないが、こんなトンマなことをやらかしたのははじめてだ。ぼんやりしていて、踏切内に侵入しすぎていることがわからなかったのだろう。やきがまわったものだ。


私がこの歳まで生きられたのは幸運といっていい。でも改めて考えてみると、それどころではない。今年になってから、新型コロナウイルスの流行で、アメリカ全土で20万という途方もない数の死者が出ているのだ。感染者数ではない。死者の数だ。

第二次世界大戦では、ソ連の2千万人をはじめとして、中国の1350万人、日本の300万人などという膨大な死者が各国で出ている。これらは軍隊、市民を合わせた数だ。軍隊の戦死者だけだと、アメリカが29万人(国土が戦場になっていない)、フランスが20万人だったそうだ。

ウイルスの脅威はとどまるところを知らず、ワクチンもまだできていない。世界の他の地域では押さえ込みに成功しているかに見えるところもあるけれど、アメリカ合衆国に限って言えば、冬に向かって病勢はますます悪化するかもしれない。もう全土が戦場といっても誇張ではない。



アメリカだけの特徴として、マスクの使用が政治問題化したことが危機の克服を困難にしている、ということがあげられる。つまり、マスクをつけろなんて大きなお世話だ、俺たちには憲法で保証された自由がある、マスクの強制はその自由を侵害するものだ、という主張だ。

日本にもこの「同調圧力」を警戒する声はある。なんでもお上のいうとおりにしていればいいといっているうちに外堀を埋められてしまって、気がついてみたら基本的自由がなくなっている、というようなことにならなければいいが…と危ぶむ声だ。私は日本ではこの恐れは成り立つと思う。だから同調圧力に反対の声を上げるということには十分な理由がある。でも、それはこの恐れがみんなに共有されていないからだ。世間が一丸となって異端者を探し出し、猛烈なバッシングを加える。それが「自粛警察」なんて存在となって浮かび上がってくる。

アメリカはそうではない。アメリカはもともと異端者が集まって作った国だ。彼らは自分たちを縛る縄にはことのほか敏感で、少しでもそんな気配があれば、すぐに反対の声を上げる。

でも今回は勝手が違った。相手は目に見えない病気だ。病気に対抗するためには医者に頼るほかはない。それなのに、医者を信用しないのがこの連中だ。


率先して難題に取り組むべき大統領が、実はコロナ禍の最初からその恐るべき実態を知っていながら国民に嘘をついていた。それが暴露されたのはワシントン・ポスト紙のボブ・ウッドワード記者の本の中である。いつもなら「フェークニュース」で片付ける大統領がそれができないのは、ウッドワードが電話による会話を録音していたからだ。さすがにウォーターゲート事件でニクソン大統領を辞任に追い込んだだけのことはある。

なんの根拠もなく「そのうちにおさまるよ」と楽観的なことを言ったのは国民をパニックに陥れないためだったと大統領は弁明しているが、そのために20万人が殺されてはたまらない。

医者が病気に対して最も有効な手段だと一致して推奨するマスクを彼がわざわざつけない、ということがどれだけ問題の解決を遅らせたか、死者の数を増大させたか、計り知れない。現在ではたまにつけることもあるけれど、基本姿勢は変わっていない。

時々もよおす政治集会では、参加者にはマスク着用を求めることもしない。そしてもちろん支持者が密集した会場に、自分一人だけ観衆とは隔たった壇上から語りかけるのだ。


4月の終わりに、ミシガン州ではロックダウン(都市封鎖)に抗議してデモ隊が州庁舎に押し入った。マスクもつけず、2メートルの距離もとっていない。しかも信じられないことに銃器を所持していた者もいたのである。弾はこめていないから、ただ持っているだけなら合法だ、と主張した。そのほとんどはいわゆる白人だ。

街では非武装の黒人が警官によってひんぴんと殺されている。そのときに言い訳に使われるのは彼または彼女が銃を隠し持っているように「見えた」という言い草だ。それで殺されるなら、このデモ隊は皆殺しにあっても文句の言いようがない。

経済的な苦境からなんとか逃れたいという気持ちはわかるけれど、いくら苦しいからといって、病の拡大を助長するような行動をとってしまうというのは理解に苦しむ。

CNNの黒人アンカー、ドン・レモンが怒りに耐えかねた口調で非難した。
「このご時世に家にこもりたくても、それが許されない仕事をしている人々はいっぱいいる。医者や看護師は言うまでもなく、郵便配達の人とか、街の清掃に携わる人とか、畑で野菜を作っている人とか。その大部分は黒人やヒスパニック系だ。そういう人がコロナに感染してどんどんなくなっている。彼らのことを、このデモ隊に参加した者は考えたことがあるのか」


大衆に不人気な政策、マスクとか外出禁止とかを進言する医者のいうことを政府は無視できない。トランプはコロナウイルス対策本部を設置してことにあたらせたが、その重鎮アンソニー・ファウチ博士(国立アレルギー・感染症研究所所長)とはことごとに対立する。トランプ支持者はついに「ファウチをやめさせろ」と言い出す始末だ。その理由というのが、「ファウチは選挙で選ばれたわけではない。その彼が絶大な権力を振るうのは民主的ではない」というものだ。

私は耳を疑った。民主主義では誰もが平等で、指導者は選挙で選ばれる。それはまさにその通りだが、こと科学に関して言えば専門家が必要で、その専門家をズブのしろうとが選挙で選ぶわけにはいかないのは、子供にもわかる道理ではないか。しかしこういう狂った言説が曲がりなりにも通ってしまうのが現在のアメリカの社会なのだ。

アメリカには昔からこういう反知性、反エリートの潮流がある。それはよく知っているつもりだったけど、テレビに登場したデモ隊のティーンエイジャーがマスクは自由の敵だ、というに及んで、私はあきれ返って物も言えなくなった。

あれから何ヶ月が経ったことだろう。マスクはつける必要がないと主張していたデモ隊の主導者がコロナにかかって緊急治療室に運ばれたというニュースが最近流れた。彼は従来の自分の言説を反省しているだろうか。

自分のことだけならばいい。重大な後遺症が残ろうとも、悪くすると死んでしまうことも、全ては自己責任だ。でも問題は自覚の少ない人間がウイルスをまき散らして周囲の多数の人間に病気を感染させてしまう、ということだ。日本ならば自明のことが、アメリカではなぜ政治的な論争にすり変わってしまうのだろう。


こんな調子だから、私も現実に命をおびやかされている。踏切での事故(あるいはその可能性)を生き延びたからといって、自祝している場合ではない。

折しも11月の大統領選挙にむけて、トランプ大統領と挑戦者のバイデン元副大統領との間で最初のテレビ討論が行われた。しかしトランプによるバイデンへの侮辱と発言妨害によって討論と呼ぶに値しない惨憺たる有様に終わった。

トランプは、司会者から出された「例え負けても選挙後の政権交代をスムーズに行え」というのと、「白人優越主義者団体を非難せよ」との二つの要求に明確に答えなかった。この二つのイシューは民主主義の根幹をなすものだ。これらのことをトランプに確認しなければならないというのがそもそも異常だ。こんなことは当たりまえのことなのである。

私の命と同じく、アメリカの民主主義も風前のともしびだ。前途は暗いよ。



後記)この文章をアップロードしてから2日もたたないうちにトランプ夫妻がコロナウィルスに感染していることが発表された。

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