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移りゆく心 |
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2020年1月1日 |
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 | 吉田 美智枝 [よしだ みちえ]
福岡県生まれ、横浜市に住む。夫の仕事の関係で韓国ソウルとタイのバンコクで過ごした。韓国系の通信社でアシスタント、翻訳、衆議院・参議院で秘書、韓国文化院勤務などを経て現在は気ままな主婦生活を楽しんでいる。著書に『朝鮮王朝の衣装と装身具』(淡交社、共著)『韓国の近代文学』(柏書房、翻訳)などがある。現在、文化交流を目的とした十長生の会を友人たちと運営、活動している。 |
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▲ 友人の別荘で...亭子(チョンジャ)と呼ばれるあずま屋と渓流のある庭園を望む。(韓国江原道江陵市) |
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人の心というのはその時々で移り変わるものだということに今さらながら気づいた。
若いころは生涯ずっと現役で働き続けたいと思ったし、できるだけいろんな国を旅したかった。家にいるよりともかく町へ出て刺激を受けたかった。そしてできるだけ長生きしたいとずっと思ってきた。
ところがである。このところ寿命100歳といわれる今、長寿がそんなにありがたいと思えなくなった。
100歳の人生が健康でなければあまり楽しくないだろうということも理由のひとつであるが、それより人生の目的を持ち続けることの難しさを思うようになったからかも知れない。 私自身があれだけこだわり熱望していたことも、時間の経過や環境の変化で、ある日ふと移ろっていくことに気づいたからだ。
働き続けることも、旅することも、町へ出て刺激を受けることも、体力気力と大いに関係があるだろう。
先月、断捨離をした。その動機が終活に近い気分と言えば大袈裟かも知れないが、いつ何かあってもいいよう、身の回りをシンプルにしたくなったのだ。 終活なんて、どうも正月に相応しくない文になってしまった。
ただそれは悲観的でなく、楽観的、肯定的な終活なのである。
人は固く決心したことでも、ある出来事がきっかけで容易に心変わりするものだと最近つくづく思う。
100歳の寿命を目標にしていた私になにが起こったかはここでは触れないでおこう。言えることは、私自身の健康というより、生きる時間の濃度と意味に私の中で変化があったということである。
自然に生ききる年齢が私の寿命だという、当たり前のことに気づいた。病院で長く横たわり命を繋がれることより違う人生を生きたい…今は自然にそう思う。
そういう私に夫は言った。 「いや、君はどう考えても100まで生きるよ!」
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